2013_02
18
(Mon)22:02

今古奇観 その七

第十四話「宋金郎团圆破毡笠」。「警世通言」の二十二話目にあたる。
邦題は「宋金が破れ傘に団円する」


ものがたり
明の正徳年間、蘇州に住まう宋敦夫妻は役人を務めたこともある家柄で、先祖の土地を耕しのんびり暮らしていた。ただ一つの悩みは子供が出来ないこと。ある時、娘娘廟への参拝の帰り、病気の僧が寝ている宿を通りかかる。僧は三年余り金剛経を唱え続けて生活し、もうすぐ縁に導かれて円寂するところだという。宋敦は僧のために身をはたき棺桶を買ってやった。その功徳のためか、やがて妻は身ごもり子供が産まれる。息子は名を宋金といい、特に問題もなく育っていったが、彼が六歳の時に宋敦は病気で亡くなり、その後暮らし向きが悪くなって母親も死んでしまう。一人残された宋金は読み書きが出来るのを頼みに笵という新たに赴任してきた県令に雇われたが、周囲の奉公人ののねたみのために追い出されてしまう。困り果てていた矢先、父の友人である劉有才夫婦に拾われ、彼らの船商売を手伝うことに。劉夫妻には娘が一人おり、名を宜春といった。彼女は宋金が初めて船に来た時、小雨をしのげるよう縫った破れ傘を被せてやるのだった。宋金は夫婦のもとで懸命に働き、瞬く間に評判を知られるようになった。劉夫妻は彼が貧しくも旧家の子息で、しかも亡き友人の忘れ形見ときているから、宜春を嫁がせて夫婦にした。やがて子供が産まれたが、すぐに病気で亡くなってしまう。宋金はそれがきっかけで心を病み、半ば廃人となってしまった。一年余りしても一向によくならないので、劉夫妻は宋金を厄介者と思うようになる。ある時、わざと船を陸に乗り上げ、宋金を下ろして山から柴を持ってくるように命じ、その間に自分達は船を出してしまう。宜春はそれを目にして激昂し、劉夫妻を罵った。だが船を戻し、あちこちを詮索した時にはもう宋金の姿は無かった。宜春はその後喪に服し、生臭物も口にしなければ再婚もしようとしない。一方の宋金は劉夫妻に捨てられたのを嘆き一人困り果てていたが、そこへ老僧がやってきて、金剛般若経を渡し宋金を諭す。宋金は般若経を唱えるうちに心が開け、やがて山の中で山賊達の遺産を見つける。そこには金の山があった。彼はそれを持ち帰り、金陵で銭大尽と呼ばれる大金持ちに。捨てられてより三年、宋金は劉有才夫婦を訪ねる。宜春は、銭大尽が破れ傘をいじっているのを見て彼が宋金だと気がつき、再会を喜ぶ。夫妻は宋金に謝罪し、一家は南京に移り住むことに。宋金は老僧に救われて以来毎日金剛般若経を唱えていたが、妻もそれに倣い、その信仰によって家は代々栄えたのだった。


話自体はシンプルなのですが、細かな場面の描写が込み入っていてちょっと複雑な粗筋になってしまいました。ご容赦を。
さて、本作で注目したいのはやはり中国人の宗教観。
中国においてどんな宗教が最も受け入れられるのかといえば、やはり現世利益のある宗教に尽きる。その顕著な例が道教。不老不死やら錬金術といった類の代物は、全て現世における利益の追求しようとした結果生まれてきたのだ。
本作では金剛般若経が登場するわけだが、これは紛れもなく仏典である。仏教はそもそも現世利益を与える宗教ではないが、本編では般若経を唱えたことで病気が治るやら金を手に入れるやらいいことづくめ。中国の当時の民間人の宗教観をよく表しているエピソードだといえるのではないか。とどのつまり、現世で何らかの利益をもたらしてくれるのがありがたい宗教というわけだ。中国でキリスト教が受け入れられにくかったのも、つまりは来世での救済といった点に同調出来なかったためであると思われる。
本作の舞台は明代であり、仏教の概念自体も大分変化して中国風になっていると考えることも出来る。有名な古典小説「金瓶梅」の呉月娘という女性は信仰心の厚い人間だったが、彼女を訪ねてくる尼や僧の教えというのは大概が金目当てのデタラメだったり、中国における宗教の実態を描き出している。当時はろくでもない仏教徒もそれなりに存在したのだろう。
本作では、別に大きな視点から宗教を語っているわけではない。あくまで人々に「信仰心を持つこと」の大事さを訴えるのみに留めている。宋敦が持っていた衣服まで売って僧のために棺桶を買ってやる場面、宋金が仏を毎日拝む場面などが、それを端的に表している。信仰心を持てば利益が帰ってくる、というわけだ。

タイトルになっている破れ傘だが、これは夫婦の再開のきっかけとなる恋のアイテム代わりとして用いられている。作品によってはハンカチだったりかんざしだったりするわけだが、これもまた当時の説話小説のセオリーの一つである。
本作でも印象的なキャラは宋金の妻、宜春だろう。夫への情愛は人一倍強く、彼のために一生喪に服す決意を固めるほど。彼女は船商人の娘で、教養には乏しく身分も高いわけではない。また女性ということは、少なくとも男より一段低い身分として扱われる。そんな彼女が人としての貞節を大事にしているところに、読者は心を打たれるのだ。第五話の杜十娘と同様のパターンだろう。




スポンサーサイト
2013_02
16
(Sat)19:49

今古奇観 その六

第九話「转运汉巧遇洞庭红」もとは「拍案惊奇」の一話目にあたる。
邦題は「転運漢巧く洞庭紅に遇う」。転運漢とは人の名前ではなく徒名。運のまわる男といったところ。ようはラッキースターである。

ものがたり
明の成化年間、蘇州に住まう文若虚は聡明でいったん手をつけると大抵のことはこなせる男。しかしそれをいいことに稼業を怠け、すっかり財産を食いつぶしてしまう。何度か商売をやってみるが、いつも元手をすってしまう。ある時に、北京では扇子が売れると聞いて沢山仕入れてみたものの、その年は雨が降って扇子は全て駄目になってしまう、という具合だった。それから数年後、海外へ商売に行く一団に文若虚はついていくことにする。義侠心のある張という男の助けで、どうにか船の組員の一人になれたが、生憎海外へ商売へ行くにしても売る品物が無い。張から貰った銀一両で、文若虚は太湖の蜜柑「洞庭紅」を百斤ばかり買った。本人はこれが商品になるとは露ほども思わず、ただ船旅で喉が渇くだろうからと船員の皆のために買っただけだった。
出港した船はまず吉零国という場所についた。そこでは中国の品が三倍の値で売れる。文若虚は何気なく船を下りて蜜柑を箱ごと取り出し食べていたが、そこへ現地の人々がもの珍しそうにやってきて、蜜柑が食べ物だと知ると売ってくれるようせがんだ。それを皮切りに、蜜柑は次々にさばけていく。文若虚は値をふっかけていたので、稼ぎは相当なものになった。
再び出港した船だが、途中で風に遭い無人島に流れ着いた。文若虚は一人上陸して奥地に進み、巨大な亀の甲羅を見つける。他の商人達が品物を物々交換したのに対し、文若虚が持っているのはお金だけで、中国に戻った時向こうで売れる品物が無いので、ひとまずその珍しい甲羅を持って帰ることにした。
数日後、一行は福建に到着した。目の肥えたペルシャ人商人の店で、皆は自分達が持ってきた品で取引を始めるが、文若虚は品物が無いので落胆していた。しかし翌朝、ペルシャ商人は文若虚が持ってきた甲羅を偶然見つけ、これを高く買い取りたいと言い出した。文若虚は思い切りふっかけて五万両で売ったが、主人は即座に承知した。何とその殻は竜の殻であり、その殻には夜光の珠が数えきれないほどくっついているのだった。結局ペルシャ商人は相当安く買い取ってしまったわけだが、文若虚は足るを知り、家業を起こして子孫も繁栄したのだった。



いわゆる「運」の話である。これもまた訓示的な内容。いわゆる庶民の人々の中には努力をすることを無駄に思う人間が大勢いる。それもそのはずで、この時代農民は一生農民、商人は一生商人、地位を得るための手段となればオンリー科挙なのだ。努力しても人生が好転するとは限らない。そんな庶民を感化させるため、というのは言い過ぎかもしれないが、人生の中で転がり込んでくる運について本作では述べている。
主人公の文若虚は落ち目の人間だが、決して中途半端な暮らしになびこうとしない人間である。失敗しても、必ず次の機会を見つけては行動をしっかり起こす。そうした姿勢を持っているから、張のような人間が助けてくれたり、運がまわって大儲けも出来るのだ、というわけ。
ところでこの話の見どころは、何といっても海外の描写。明の成化年間はちょうど色々な国から入貢があった時期でもあり、海外との商売は盛んだったのだろう。海外商売専門の宿や通訳、仲介人がいると本編でも触れられている。また中国の品を海外に持っていくと三倍の値で売れ、さらにその海外の品物を中国に持って帰って売ればやはり三倍で売れる。つまり物々交換して中国に持って帰れば、九倍の値段で売れることになるのだと書かれているので、これは危険を冒しても確かに行く価値がある。
ちなみに、文若虚らがたどりついた吉零国だが、ネットでこんな文章を見つけた。
「吉零国,出自 《初刻拍案惊奇》,疑为斯里兰卡和缅甸之间,也就是今天的孟加拉湾」
スリランカとミャンマーの間、つまり現在のバングラデシュらしい。出典が不明なので、どこまで信用できるのかはわからないのですが…。
また終盤に出てきた竜の殻って何のことぞやと思われるだろうが、これまた詳しいことは不明。竜には九種類あって、本編に登場したのは鼉竜(だりゅう)という生き物の殻らしい。古代中国の空想上の生物で、ワニに似ているのだとか。そんなものが本当にいるかどうかはさておき、当時の人々が海外に抱いていた感覚がわかるのはなかなか面白い。
ちなみにタイトルにも出てくる洞庭紅は実在する。
2013_02
15
(Fri)08:12

毛沢東「紅楼夢は五回読まなければ発言権はない!」

日記のタイトルがなんじゃそりゃ、なのはさておき。
「紅楼夢」といえば中国では四大名著の一つであり、最も有名な古典の一つです。近頃は李小紅監督によってドラマ化もされたりしましたが、怖いファン達からぼこぼこにされてしまった模様。

さてそんな「紅楼夢」ですが、正直読みにくいことこの上ない。
日本人だから中国人だからというわけではなく、普通に挫折してしまいたくなる壁がいくつもあるのです。


1、冒頭三回のつまらなさ。
wikiでも語られていますが、第一回から第三回までの内容は非常に退屈です。これでまず五割がたの読者が消えていくことは間違いない。私も最初呼んだ時はここで挫折しました。
ちなみに私がハマり始めたのは四回目で、それも飛ばし読みして第五十六回の探春が家政をしきるあたりからです。

2、登場人物のアホみたいな数の多さ
アホみたいって何やねん!と怒りを買うかもしれませんが、ほんとに多いんだからしょうがない(でも三回くらい通して読むともうどのキャラクターも頭から離れないんだなこれが)。
賈、史、薛、王の家の人々とその侍女や下男、さらに彼らの関係者…という感じに複雑な人物関係があり、家系の略図とか見てもなんのこっちゃという感じです。
特に初見の読者が混乱するであろう部分の一つとして、賈家四姉妹の関係なんかが挙げられるでしょう。元春、迎春、探春、惜春の四人のうち、主人公の賈宝玉の実の兄弟は元春のみで、あとはみんな側室腹だったり、叔父の娘だったりとごっちゃごちゃ。まあ中国における兄弟の概念は日本のそれと異なる(向こうじゃ同族は既に兄弟同然)ので、ここはまた事情が違うのですが。


3、設定面の複雑さ
大観園? 太虚幻境? いやそもそもこの作品のタイトルは「紅楼夢」なのか「石頭記」なのか?
これはまあおまけみたいなもんですが、上記二つの要素にこれがプラスされることによっていよいよ読者の頭をかき乱してくれます。


しかし、上の三要素は一度はまってしまうと苦になるどころかスルメみたいに噛めば噛むほど味が増すようになります。紅楼夢の評価の高さの一つに、その構成力が挙げられています。とにかく上記の三要素があっちこっちで様々な伏線や因果関係を生み出し、一つに収束していくまでの展開の巧みさは見事に尽きます。
複雑だからこその面白さ、とでも言いましょうか。

ちなみに日記のタイトルにした毛沢東の発言ですが、当時は紅楼夢論争が流行っていたこともあって、深く読み込んでこそ作品を論じる権利がある、という旨で言ったもの。
2013_02
13
(Wed)23:10

今古奇観 その五

第七話「卖油郎独占花魁」

邦題は「油売りが花魁を独り占めすること」。これまた中国の説話では有名な一遍。江戸時代に中国の写本が国へ伝わると、一部登場人物が改編されるなどして読本にもなった。《醒世恒言》の三話にあたる。


ものがたり
宋の時代、北方金軍の南下によって開封に住んでいた莘一家は離散してしまう。莘夫婦の一人娘、瑤琴はあてもなくさまよううち、卜という男の手で臨安の廓に売られてしまう。騙されたと知った時には後の祭り、彼女は仕方なくそこで働くことになり、王美娘の名を貰う。十四にもなると臨安では有名な佳人になっていた。十五歳の時、初めて水揚げを経験し、その後一悶着あったもののそれからはますます客を取るようになり、彼女の名前は一層広まった。
一方、臨安府の油売り朱老人のもとでは三年前から秦重という若者が働いていた。彼もまた開封から戦を避けて避難してきた人間だった。朱老人のもとで働く女中といさかいになって家を追い出されてから、彼は一人で油を売り歩くようになる。真面目に働いていたある日、廓の前を通りかかって王美娘の姿を目にする。廓のおかみ王ばあさんはかねてから秦の噂を聞いていたので、お得意扱いするように。秦重は王美娘に会いたい一心で、ある日ついにお金を少しずつためて彼女を一晩抱く決心をする。一年半年かけてお金をため、身なりを整えた彼はいよいよ王美娘を一晩買おうとするが、とうの彼女は有名な芸妓なだけあってなかなか会えない。一か月余り経ってようやくその機会が来たが、王美娘は先客との宴会で酔っ払っていてとても秦重の相手をするどころではなかった。とりあえず奥部屋で二人っきりになった秦重は、酔った王美娘を一晩中介抱してやる。翌日、正気になった王美娘は彼の礼儀を心得た振る舞いに心底感服するのだった。
その後、秦重は真面目に働いていよいよ商売も大きくなった。そこで手伝いを雇おうと決め、折よく同じ開封出身の老夫婦がいたのでこれを雇うことにする。一方、王美娘はある時相手をつとめた呉八公子に辱められてしまい、靴を脱がされて川辺に放り出されてしまう。だが偶然駆けつけた秦重に救われ、彼女は是非あなたのところに嫁ぎたいと告白する。最初は断った秦重だが、王美娘の熱意にいよいよ承知した。彼女はかねてから自分で自分を受けだすために小銭をため込んでいたため、おかみの王ばあさんの友人、劉ばあさんに説得を手伝って貰い、無事廓を抜け出すことに成功する。
吉日を選んで結婚した二人だが、そこで驚くべき事実が判明する。秦重のもとで雇っていた老夫婦が、何と王美娘の良心だったのだ。天の引き合わせに感謝した秦重は、寺でお参りをする決意をする。色々な寺を渡り歩くうち、天竺寺で働いていた老人が自分の父だと知り、二人は再会を喜んだ。その後秦重と王美娘は子供を二人産み、彼らは学問で名を成したのだった。


しがない油売りが都一番の美人を手に入れ、生き別れた家族とも再会、子孫は栄えるといういいことずくめな話。
とはいえ、中国の説話の王道パターンでもある。物語の構成は見事で、王美娘と秦重、二人の話を別々に描きながらうまく絡ませている。貧乏な秦重がいかにして彼女を手に入れるのかと思えば、ただひたすら真面目にコツコツ働いて貯蓄するという、ある意味読み手の心理を裏切ったような展開がグッド。
日本人の観点からすると、家族に再開するくだりは少々ご都合主義に見えてしまうかもしれないが、中国小説を読みなれていると案外そうでもない。
中国では知り合った相手が「同郷の人」であることの意味が大きい。
瑤琴が悪党の卜をあてにする羽目になったのも彼が同郷の人だからであり、秦重が老夫婦を雇ったのも同郷の縁からである。広大な中国において、故郷が同じであるということは即ち助け合う仲間同士なのだ。特に北宋時代は北方から遼国や金国が攻めてきた事情もあり、戦火の中での助け合いとなれば、なおさら同郷の結びつきは重要視されたことだろう。そのため、物語の中で起こる離散と再会は偶然的な要素もあるにせよ、実は意外と読者を納得させる展開になっている。
またこれは余談だが、初めて会った中国人同士が名乗りをあげる時、大抵は名前と一緒に自分の郷里がどこであるかを明かす。これもまた上のような事情が絡んでいるのだろう。

ものがたり紹介では省いてしまったが、王美娘が劉ばあさんから娼妓の落籍について指南される場面があり、当時の中国の世相がわかって非常に面白い。廓に関する描写はこと細かく、当時の廓通いのルールなども学ぶことが出来る。
説話には訓示的な内容が多いが、本作の隠れメッセージは一つには「誠意を大事に(秦重のように真面目に働くことや、王美娘のように金ではなく人柄で相手を選ぶこと)」、二つには「同郷の縁を大事に」といったところだろうか。