先日、超文学フリマが無事終了しました。
立て続けに文学フリマのイベントがあったので、忙しかったの何の。
終わってみれば、いつもとそれほど変わらない売れ行きでした。まあ普通の文学フリマほどは売れなかったかな。

今回のパンフレットにはとても興味深い記述がありました。文学フリマも開催を重ねることはや十数回、もともとローカルで広い意味の文学を提供する場だったこのイベントが、参加者の固定化などにより段々と閉塞感を感じるものになっていった……今回のニコニコ超会議への参加はそうした状況を打開するためのものだったそうです。

確かに私も同様の印象は感じていました。学生時代から参加しているこのイベントですが、あれから三年、出店者の皆様のレベルはどんどん上がっており、新規参加者が入りづらい状況になっていると思います。特に本の中身ではなく、装丁やブースのデザインなど、見た目の力の入れようが凄い。買いに来るだけの方々にしてみれば「レベルたけー」の一言で済むのですが、出店する側にとっては敷居が高いことこのうえないです。年々、新たに参加しては続かずに去って行ってしまうサークルも少なくないんじゃないでしょうか。もちろん、気持ちの軽い参入者が増えると全体の質の低下に繋がる、という意見もあるでしょう。それはそれで危惧するべきことです。
いずれにせよ、参加者の一人一人が文学フリマというイベントについて問い直してみることが必要なのかもしれません。

超会議参加者の多くは、文学フリマよりも他のブースを目当てにしていた方が多かったようです。毎回文フリに出ていると感覚が麻痺してしまいがちですが、やっぱり本という媒体は娯楽としての地位が厳しくなっているようです。読むというのは時間が要るし、けっこう疲れる。それが今どきの認識だと思います。
だからこそ、私も学ばせて貰ったことは多いです。大学名義で文フリに参加していた私が個人出店を決意した理由は、中国文学をもっと大勢の人に知って欲しいという想いがあったためでした。しかしそれがいつの間にか、文フリの客層ばかりに絞った作品を書いていたのではないか……。意識しているいないは別として、自分で読者層の幅を狭めていた気がします。
いろんなことを考えさせて貰った超文学フリマ、参加できて良かったと思います。

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2013.04.29 はじめに
なんでこんな企画を始めようかと思ったのかといいますと、大勢の方に中国随一の古典をわかりやすく紹介したいというのが一つ、紅楼夢に対する誤解を無くしたいというのが一つ(エロ作品だとか思ってる人がいるからね)、私自身が紅楼夢の物語を頭でもう一度きちんと整理したいというのが一つ。

用いるテキストは平凡社の中国古典文学大系「紅楼夢」全三巻。百二十回。
わかりやすい要約と各登場人物について述べていこうと思う。

いつ終わるのかまったくめどがつかないけれども、お付き合いいただければ幸いです。
 今回紹介するのは第十七話「蘇小妹三難新郎」。資料によっては「蘇小妹三難秦観」という表記もあるが、意味は同じ。醒世恒言の第十一巻であり、邦訳は「蘇小妹が新郎を三度苦しめる」。
タイトルに出てくる蘇小妹は、あの宋代の大家・蘇軾の妹である。
え、蘇軾に妹がいたの? と驚く方もいるだろう。
もちろん、いません。この蘇小妹、創作上の人物。詳しくはまた下で語るとして、いつも通り物語紹介を。

ものがたり
四川の眉州には才人がいた。蘇老泉、蘇軾、蘇轍の三蘇である。だが実は才人は彼らだけではなかった。蘇老泉の娘である蘇小妹は才能に溢れ、また一家が文人肌であったために若くして大成する。老泉はある時詩作に難儀していたところ、部屋へ立ち寄った娘があっさり完成させてしまったのを見て、男であればよかったものをと嘆息する。それからは酷く娘を可愛がり、やがて彼女は十六歳を迎えた。その後、宮中でもライバルであった王安石が老泉を飲みに誘う。語り合ううちに王安石は息子の文才をひけらかすような発言をしたので、つい老泉も酔いに任せて娘の自慢をしてしまう。後で後悔したものの、王安石からは自分の息子の文章を小妹に添削してほしいと頼まれる。蘇小妹はあっさり批評を書く。その批評があまりにも上から目線なので、老泉はびびってしまう。適当に書き直して王安石に送ると、何と娘さんと縁談を結びたいという返事がかえってきた。老泉は娘はブスだからと言い訳して断る。ところが王安石は当時の宰相であり、その彼から求婚された娘がいると噂が伝わるや、蘇家に縁談を申し込むものが次々と現れた。しかし蘇小妹は申し込んできた者に文章を送らせ、出来が悪いと全て突っぱねてしまう。
ただ一人、秦観という揚州の者の文章は出来がよく、蘇小妹も興味を持った。しかし秦観の方は小妹がブスであるという噂も聞きつけていたので、ある日小妹が廟へお参りに出かけたところを道士に紛争して探りに行く。噂と違ってなかなかの器量なので、からかってみると受け答えも賢い。期日を選んで結婚した。しかし試験にまだ受かっていないからと床入りはお預け。その後試験に及第し、ようやく床入りできる……と思ったらまだ甘かった。蘇小妹は三問の題を用意しており、全部できたらあなたと寝てあげるという、面倒くさい要件を持ちかける。秦観は二問まで難なく解いたが、三問目がどうしても出来ない。しかし蘇軾が彼を影ながら助け、ようやく秦観は思いを遂げる。その後、夫婦は仲睦まじく暮らす。ある時小妹が都の兄のもとへ遊びに行くと、蘇軾は友人から出された題を解くのに難儀しているようだった。だが蘇小妹はそれをあっさり解く。蘇軾は妹の才をたたえた。蘇軾からの書簡でこの一件について知った秦観は、妻のことを試すべく自分も同じような題を送る。だが蘇小妹はそれをあっさり解く。才知に溢れた蘇小妹の評判は、宮中でも有名になった。その後小妹は夫に先立って亡くなる。秦観は彼女のことを生涯忘れず、二度と結婚しなかった。



入話では、文才のある女性達の名が沢山挙げられている。長い中国の歴史の中では女性の文学者も少なくない。彼女達の存在が、本編に出てくる蘇小妹の存在を説得力あるものにしている。
さて、その蘇小妹が架空の人物であることは上でも述べた。蘇軾は弟との間で大量の書簡のやり取りをしているのに、その中に蘇小妹に関する話題が一切出てこない。いくらなんでも、身内に対する話題で一言も触れられていないのはおかしい、というのが彼女の存在を否定する根拠になっている。
まあそうでなくとも本編を見れば、実在が怪しまれるのも大いにわかるだろう。蘇小妹ほどのスーパー才女は古典小説を読んでいてもなかなかいない。蘇軾の妹、という肩書きがあったからこそ、ここまで物凄いキャラクターが生まれてしまったのだろう。逆に考えれば蘇軾もそれだけ偉大な文人だったということだ。
何かと上から目線な蘇小妹は、結構キャラが立っている。王安石の息子の文章を見て「こんな文書く奴は早死にだわ」とまで言ってのけたり、兄の蘇軾に向かって複雑な言い回しで「お前の口がもじゃもじゃの髭に隠れて見えねーよwww」「顎長すぎて涙がいつまで経っても落ちないんすケドwww」とからかったり。
また本作は特異な詩のやり取りが多数登場する。ここではうまく紹介出来ないが、当時の知識人達がどのように教養をはかっていたかがわかるようで面白い。漢字や詩の奥深さを味わうことが出来る。
ものがたり紹介のところでも書いたように、全編通してなかなかコミカルなのも特徴。特に蘇老泉の娘への愛着は読んでいて愛らしさを感じる。秦観が道士に変装して小妹とやり取りをする場面もギャグ要素満載。
登場人物についてさらに述べていくと、やはり王安石と蘇家の関係が色々と興味深い。王安石は当時新法による富国強兵改革を進めていた人物で、老泉の息子蘇軾はそれに対して反対を訴えている。だが両者の仲の悪さは新法に始まったわけではなく、親の代からの長い因縁があった。一応、老泉と王安石はお互いの立場を重んじて表向き仲良くしているわけだが。コミカルな部分に隠れてしまってはいるが、このあたり史実をうまく話に取り込んでいる。
蘇小妹の夫である秦観も実在の人物で、蘇軾とは友人である。やはり相当な文才を持っていた。彼の本当の妻は徐文美という名で、子供は三人ほどもうけたらしい。
今回のお話は第十六話「李汧公穷邸遇侠客」。醒世恒言の三十巻目であり、邦題は「李汧公が穷邸で侠客に出会う」。本作はいわゆる侠客ものであり、そういうジャンルの小説までカバーしているあたり、今古奇観の懐の深さや作者の見識をうかがわせる。

ものがたり
唐の天宝年間、玄宗皇帝の治世は荒れ始めて各地で反乱がおきている。とりわけ安禄山による被害は大きく、天下の民は苦しんでいた。長安に住む房徳という貧しい男は、いつまでも仕官にありつけず、家ではけちな妻のせいで着るものにも苦労していた。知り合いを尋ねて金を借りにまわっていたある日、雨除けのため寺に入ると、そこには頭の欠けた鳥の絵がある。房徳はなんとなしにその鳥の頭を書き足した。すると隠れていた賊が現れて彼を仲間に引き入れようとする。何でも鳥の頭を書いてくれる人をかしらに仰ごうと待っていたのだ。半ば脅される形で仲間になった房徳は、彼らとともに強盗をするが捕まってしまう。
その時の知事だった李勉は慈しみ深い人物で、賊の中でただ一人浮いている房徳を見て何かあると思い、彼を逃がしてやる。房徳は感謝してその後笵陽に向かい、安禄山に仕えて身を落ち着ける。一方の李勉は房徳を逃がした咎で免職になり、故郷へと戻った。清廉な役人だった彼は私腹を肥やさなかったので家が貧しく、二年もすると
暮らしが行き届かなくなった。ある日、彼の前を通る役人の一行、馬に乗った人間はなんと房徳ではないか。
房徳も李勉に気がつくと、屋敷へ招いて彼を手厚くもてなす。房徳は家へ帰り、妻に李勉へ贈り物をしたいと語ったが、了見の狭いこの女は李勉を殺すように夫へ迫る。李勉は房徳がかつて賊だったことを知っているから、もしそのことを餌に弾劾でもされたら今の地位を失うことになると。妻の強気な物言いにのまれてしまった房徳は李勉を殺す決意を固める。とはいっても、もちろん自分でやる勇気はない。折しも、彼の治める県には風変りな義士がいるとのことだった。房徳はわざわざその男を尋ね、あれこれと嘘をでっちあげて李勉の殺害を頼む。義憤に駆られた義士はすぐさま飛び出していく。李勉は賢い主従のおかげで房徳の企みをいち早く見抜き、遠くの宿まで逃げていたところだった。しかし晩になってくだんの義士が姿を現す。義士は李勉達の会話を盗み聞き、自分が騙されていたと知るやとって引き返し、房徳夫妻を殺害する。
事件から難を逃れるため再び長安へ戻った李勉は、やがてもとの地位を取り戻す。その後義士と再会し、手厚いもてなしを受ける。豪邸に住まい、美女を仕えさせる並外れた義士の姿に、李勉は感嘆するのだった。

実はこの話、入話が無い。珍しい。
侠客ものではあるが、義士が登場するのは物語の終盤になってから。義士の造型はどちらかというと水滸伝に出てくる豪傑に近く、房徳夫妻を惨殺する時の台詞なんか悪役そのもの。相手の腹を引き裂いてはらわたを引きずり出すヒーローが、この頃の主流だったようだ。ちなみに唐代伝奇などではよくあることだが、こうした義士は異人とのかかわりを持っていることが多い。本作の義士も異国人の下僕を連れていたりする。そうでなければ、神仙の弟子であるという設定がよく用いられる。清代あたりになってくるとようやく侠客達も現実味を帯びた存在になってきて、武芸門派の門弟だとか有名な山賊だったりという出自が多くなる。
また現在の武侠小説でも使われている手法が本作にも登場している。例えば義士が房徳夫妻に用いた死体を溶かす薬とか。武侠小説ではこの類のアイテムがよく登場するが、明の時代から既にその原型はあったわけだ。
さて、本作の悪役である房徳夫妻だが、諸悪の根源はどちらかというと妻の貝氏ではなかろうか。彼女の言い分は無茶苦茶もいいところで、完全に自分の都合しか考えていない。端的には、貧しい李勉なんかに金を出したくないから殺してしまえというわけ。了見が狭すぎる。そんな彼女に従ってしまう房徳も駄目すぎる。とはいえ房徳の方は悪人というよりも、他人に強く出られると逆らえないその性格が問題なのであって、根は善人に思えないこともないのだが。賊に誘われた時は、自分自身のことを清廉潔白な人間だと明言してる。
本作のテーマは「恩返し」だろう。房徳と李勉、李勉と義士、キャラクター達の恩に対する行動がそれぞれの命運を分けている。
舞台が唐代の末期ということもあって、安禄山や楊国忠のような実在の人物がちらほらと顔を出す。作者は楊国忠を悪党扱いしているが、安禄山の方はそうでもない。これが当時の認識なのだろう。現代だと安禄山は悪党としての印象が強いのではないか。また冒頭に出てくる賊の言い分も面白い。悪人が支配する世の中では、自分達が悪いことをするのも仕方ない、というわけ。この主張は中国人という民族らしさが滲み出ているように思う。
今週末の文学フリマ、ずばり参加させていただきます!
今回は水花亭さんと合同誌を刊行する予定でしたが、残念ながらスケジューリングのミスでお流れとなってしまいました。
まことに申し訳ありません……。

しかしながら、当初から合同誌以外に個人誌も出す予定でしたので、そちらは当日無事に刊行です。
タイトルは
「碧空尽 中国短編小説集 三」
今回は八十ページにボリュームUPの他、ミニコラムが二編ついております。
掲載作は二編です。
「祖と、故と」(現代・歴史)
「情に溺るるを知れば」(明代・武侠)

今回のボリュームは主に後者のせいです。ミニコラムは前回の超超超中国小説史略なみに簡単なおまけなので、余り期待されない方がよいかもしれません。

それでは、当日お会いしましょう。
大学時代に書いたレポート。
今にして思うと拙いな…

本作「紅い高梁」はフィクション的な面とそうでないリアルな面がせめぎ合い、均衡を作り出している作品だと感じた。本作は危ういバランスで成り立っており、一歩間違えばおとぎ話じみた嘘っぽさになりかねない物語を、リアルで鮮烈な描写を繰り返すことによって現実味のあるものに保っている。
本作にはあからさまに作り話じみたストーリーが目立つ。「わたし」の祖父が編み出したブローニング銃の早撃ちや、小便をかけたら高梁酒が絶妙な化学反応を起こしてうまくなったという話などは、どうみても物語としてのリアルさには欠けている。しかしそれと相反するような生々しい話もある。犬との戦いで睾丸をやられてしまった「わたし」の父の描写、日本人の命令で皮をはがされる羅漢大爺の描写などは実にグロテスクで、非常に嫌悪感を催す。リアルさを超えたリアルな描写とでもいうできもので、読んでいて非常に気分が悪くなる。上記のように、あたかもあからさまな嘘じみた部分と非常に現実味のある部分がうまく物語の中で同居しているのが「紅い高梁」という作品だと考えていいだろう。
これらの同居は何も物語の面だけではなく、登場人物や舞台設定にもあてはまる。例えば、作品の舞台となっている高密県東北郷は架空の村である。一応山東省であることは作者自身の出身地であることや他の作品の舞台にもよく用いられているという点で断言してもよいのだろうが、あくまでモチーフに留まっている。訳者のあとがきにもあるように、読者によっては山西省などの内陸の山野が情景として浮かぶという声もある。こうした錯覚は、さきほど上でのべた嘘と真実の同居がなせる業なのではないかと思われる。あまりにその場所で起きたにしては不思議な物語、そうしたものが展開されることによって、物語の起きた場所そのものが寓話的な存在に変化していく。無論、その一方で緻密な情景描写が目立つ場面も多く、その時高密県東北郷は読者の前に現実味を持った村としてうつるのだ。
登場人物において、嘘と真実の同居が際立つのは、やはり「わたし」の祖父であろう。物語の実質的な主人公であるこの人物は、片や超人的な活躍をする伝説的な人物でもあり、片や粗暴で荒々しく、野生的な人物でもある。「わたし」は祖父の人生を語るうえで、あたかも祖父の人生を眼前で見ていたかのような視点に立って語っているのが本作の大きな特徴だ。超人的な人物である祖父と等身大の人物である祖父を、「わたし」は分け隔てしない。することなく同じ人物として捉え読者に伝えようとしている。こうしたトリックにより、読者は明らかに異なった二つの登場人物を一人の登場人物として認識させられてしまう。この作品が仮に「わたし」から見た祖父の視点ではなく、祖父自身の視点による物語だったならば、読者は超人的な祖父と人間的な祖父が同一人物だとは思えなくなるのではないか。祖父という人物そのものは、実は読者にとってかなり捉えどころの無い人物である。嫁入りの女を襲うだけのチンピラにしか見えない時もあれば、強く勇敢な指導者のような一面をのぞかせたりもする。彼には様々な顔があるのは、作品を読んでいれば明らかだ。盗賊の首領であり、抗日のゲリラの司令であり、さらには怪しい秘密結社「鉄板会」の副リーダーでもある。時には新しい高梁酒を突飛な方法で開発した変人のように描写されることもある。無論、終始一貫しているような部分もあることにはあるのだが、それも全体を通してみるとはっきりしない。祖父という人物の姿は、「わたし」の語りによってその都度違う色に塗り変えられていく。塗り変えているのが「わたし」という人物で統一されているからこそ、読者はそれを信じざるを得ないのだ。こうした語り部の存在する作品においては、複数の語り部(つまりは複数の視点)が一人の登場人物について語るというパターンと、本作のように一人の語り部(一つの視点)が一人の登場人物について語るという2つのパターンを考えることが出来る。前者のパターンならば、当然語り部によって人を見る視点が大きく変化するので、彼らに語られる人物がまるで違う人間みたく読者に感じられるのはおかしいことではない。しかし後者のパターンとなると、少々違和感がつきまとう。この違和感は不気味ではないだろうか。一人の語り部が、まるで別々のように思える人間を一人の人間として語っているのだ。しかし、そのような違和感を出来るだけ表に出さないトリックを作者は別に用いている。というのは、「「わたし」が語る父や祖母、他の登場人物から見た祖父」という視点が存在することだ。「わたし」の父や祖母の内面を通して見えてくる祖父の姿が、時折「わたし」の口から語られる。こうして語り部である「わたし」にもある程度の客観性をもたせている。
作者がここまで意図しているかは不明だが、ある程度トリックをきかせなければ、読者は祖父を一人の同じ人物だと認識出来ないだろう。
登場人物に関してさらに話を掘り下げるとなると、やはり本作に出てくる人物の勢力分布に注目すべきだろう。東北郷の人々、鉄板会、日本軍、国民党、共産党、犬の群れなどである。この勢力図にも嘘と真実が隣り合わせで用意されている。国民党や共産党の抗日に対する姿勢などは現実的な描写が占められている。軍人同士の武装や武勲をめぐってのいがみ合いは実にリアルだ。「わたし」の祖父は村を守るために戦っており、国民党にも共産党にも加わろうとはしない。一時的に共闘することはあっても、祖父の視点には国家が云々という考えは存在していないのだ。この時期の中国の国民党・共産党の二大勢力(共産党の方はそこまで巨大な勢力ではないのだが)は抗日という点で表向き協力していたものの、同時に内戦も繰り返していたのが事実であり、このあたりの描写は史実に即したものだと考えられるだろう。祖父という中間地点から、読者は偏りの無い中国政府達の顔を見ることが出来る。正直なところ、共産党や国民党のどちらかに視点を置いてしまうと、もう片方の勢力に対して偏った見方が生まれるのは避けられないだろう。これは中国であるからこそいえる点だ。現代の共産党を主役にした大陸ドラマなどがそうであるように、共産党の側に立って物語を展開すると、国民党は完全な悪の勢力になりやすい。本作で祖父が中立ーーというより、あくまで村を守るという立場に立って戦い続けるのは、作者が共産党・国民党の実体をリアルに描こうとするための一つの手段だったと考えてもよいかもしれない。
その一方で、日本軍や犬の群れなどはまるで妖怪やおとぎ話に登場する存在みたく描かれている。日本軍がそうなるのはこの類の作品ならばよくあることだが、犬もまたそうした扱いを受けている。
 犬というのは、中国において人を罵るのによく用いられる言葉であり、必ずしも動物の犬そのものを表すだけではない。作中での犬と人間の戦い(戦争とも書かれている)には、その生々しい描写も含めて作者の隠された意図を感じる。実質、この犬達という単語を人間と置き換えて読んでも物語には破綻が生じない。それどころか、よりおどろおどろしさを醸し出すような印象を受ける。また犬の描写にも特徴がある。まず様々な色の犬がいること、数がかなり多く感じること(これは日本人的な感覚かもしれないが)、犬が軍隊のような描写をされていることなどである。では、本作に登場する犬は、一体どのような存在だったのだろうか。食べ物に飢えてやってきたと捉えるなら、東北郷の近隣の村の人間達をイメージしているのかもしれない。戦争によって困窮し、同じ中国人達を襲いにやってくる、そういう存在だ。日本では余り例がないものの、こうした人災や天災が起こった時に同族を攻撃するのは中国ではよくあることである。
ほかにも、中国の犬(狗)には、「へつらう」や「媚びる」という意味がある。日本の傀儡軍の手先や、あるいは作中でもいわれていたように長年人々に隷属していた層が村の混乱を好機とみて襲ってきたのかもしれない。犬達との戦いは、読者に様々な想像を膨らませる場面であると思う。
話はやや戻るが、共産党や国民党、犬や日本軍などと比較してみると、鉄板会という勢力は現実と空想の存在の中間といったところに位置しているように思う。莫言の作品にはこうした物語じみた秘密結社がよく登場する。我々日本人の視点ではこうした秘密結社の存在は思想も行動も嘘くさく物語じみているように感じるが、中国においては近代でも義和団のような例がある。そう考えると、これはリアルな存在として分類出来るのかもしれない。呪術的な儀式で鉄砲に打ち勝てるというのも、義和団に存在した要素の一つだ。また鉄板会の面々は、ゆくゆくは中国の北部全体を鉄板会の支配に置こうと考えるような面もあった。
さて、本作は「わたし」によって語られる物語であるが、この「わたし」自身についても終盤で少しだけ語られる。「わたし」は伝説的な人物達を先祖に持ちながらも、他の都市の空気にまみれてそうした人物の資質を失ってしまっている。終盤の場面では、高梁がそのモチーフとなっている。外からきた高梁が東北郷に入ってきたことによって、その殆どが雑種の高梁となってしまった。雑種の高梁というのは、いうまでもなく東北郷の高梁を踏みつぶした日本軍や、さらに掘り下げた言い方をするならその雑種の高梁を植えた人間、つまりは国の最終的な支配者である共産党政府のことだろう。「わたし」は彼らの支配にまみれて生きてきたため、東北郷の人間であるアイデンティティを失いかけている。だからこそ、墨水河に三日三晩つかって肉体を洗い清め、かつての祖父達と時を共にした赤い高梁を探そうとするのだ。こうした物語の背景には、やはり言うまでもなく共産党の過激な政策による(もっとさかのぼれば国共内戦から)中国の文化や思想など、あらゆるものの破壊があったのではないか。あとがきで述べられているように、八十年代あたりからいわゆる「ルーツ文学」の走りがあったとされる。莫言は急激な破壊にあってしまった中国という国で、自分達のルーツを描きたかったのではないか。それはおとぎ話のようでもあり、真実のようでもある。そうした曖昧さが、中国人の根底にある祖先への憧れ、ルーツに対する感情を巧みに表現しているのだと感じる。
久々の更新です。
実は姉妹ブログがありまして、そちらにばかり力を注いでいたせいでこちらは滞ってしまいました。
いずれ今古奇観のレビューも再開したいと考えています。
それはさておき、本日は文学フリマin大阪に参加してきました。
千名以上の参加者が集まったそうで、文学好きに東西の区別は無いものだと感じました。
やっぱり関西は中国文学好きがそれなりにいるようで(関西は中国文学関係の資料が充実している)、それなりに深いお話も沢山聞けて良かったです。
ちなみに売上はほぼ交通費に消えました(笑)
心残りは、大阪駅にあった古書店通りに行けなかったことかなあ。店が閉まっていた時間帯だったので、ウィンドウから眺めることしかできませんでした。寄りたかったなあ…。

さて、こっからは予告です。

次回のニコニコ超会議ですが、なんと第十五回文学フリマでお隣だった中国文学サークル水花亭さんとコンビで参加することになりました!今回は出さなかった新刊も出す予定です。