さて、今回にて今古奇観レビューも最終回です。最後にご紹介するお話は第三十九巻「夸妙术丹客提金」。「初刻拍案驚奇」の第十八巻にあたるお話。テーマは錬金術。中国では伝統的に道教がこの種の技能に通じており、仙丹という長寿の薬を生成したり、石や鉄を金銀に変えることが出来るとされていた。

ものがたり
 松江の藩という男は金持ちで学問にも通じていたが、どうしようもない錬金術マニアで、いつも怪しい道士を招き入れては大金をぼったくられていた。
ある年の秋、杭州へ遊びに行った彼は、妾と一緒にどんちゃん騒ぎをしている金持ちを見て、羨望の念からその金持ちとつきあいを始める。どうやってそんな大金を手にしたのか聞くと、金持ちは九環丹という仙薬のおかげだと答える。藩は興味が沸いて、その仙薬の製造法を教えてほしいとせがむ。
 金持ちは承諾した。その後、藩は金持ちとその妾を自宅に招待する。藩は妾の美しさに惚れ込み、仙薬のこともそっちのけで夢中になってしまった。
 金持ちの製法では、仙薬を作るのには炉の中へ銀を入れて八十一日待たねばならないという。早速、銀を炉に放り込んで仙薬の出来る日を心待ちにする藩。
 ところが、二十日目で金持ちの母が死去したとの知らせ。仕方ないので、妾を炉の番に残して金持ちは帰省した。さて、藩は妾に惚れ込んでいたので、金持ちがいないのを幸いと、あれこれ誘いをかけてとうとう自分のものにしてしまう。それからは妾と毎晩楽しんでいたが、やがて金持ちが戻ってきてしまった。
 金持ちはもう仙薬が出来ていることでしょうと請け合ったので、藩も妾を諦めることにした。が、炉を開けてみると仙薬は駄目になっている。
「きっと汚らわしい気にあてられて、薬が駄目になったのだ!」
 金持ちは妾を問いただし。藩と同衾していたことを突き止める。藩は仕方なく白状し、金持ちに謝罪した。金持ちは妾を殺すといって聞かなかったが、藩の差し出した三百両で渋々怒りをおさめた。
 結局仙薬は手には入らなかったが、女を抱けたからまあいいや、とまるで反省の気配が無い藩。またしても別の錬金術師がやってきて、金持ちと同じ仙薬を作れると豪語するので、すっかりそれを信じ込む。ところが、炉に入れた銀を一晩のうちに持ち逃げされてしまう。
 二度も立て続けに騙された藩はやっぱり反省せず、今度は自分から本物の錬金術師を探しに向かう。すると、先日自分を騙した錬金術師の一味に会ったので、怒りに任せて怒鳴りつけた。ところが相手は藩を丁重にもてなし、一緒に商売をやらないかと誘いをかける。山に済む大金持ちが錬金術を信じているので、そいつをペテンにかけようというのだ。坊さんに変装して、一味と共に山の大金持ちを訪ねる藩。前回とまったく同じやり口で大金持ちを騙した……ところまではよかったが、一味は藩を置いて金を持ち逃げしてしまう。藩は大金持ちに問いただされ、自分の素性をありのまま語った。どうにか許され、釈放して貰う。
 無一文で帰途につく途中、波止場の船から聞き覚えのある声が。近づいてみれば、以前に自分を騙した金持ちの連れていた妾だった。彼女は泣く泣く打ち明けた。
「あたくし、本当は河南の芸妓だったんです。あの金持ちに頼まれて、仕方なくあなたを騙したんですの」
 藩が自分も素寒貧だということを話すと、女はいくらか銀を持たせてくれた、忠告するのだった。
「これからは錬金術師に会っても信用しませんように。あたくしも人を騙して生きてきた身分ですから、そういうことはわかっていますの」
 金持ちはようやく反省し、二度と錬金術師を信用しなくなったのだった。


 今古奇観は現実に即した物語が多く、本作も錬金術というテーマながら話はすこぶる現実的。仙薬に関するトリックも作中で明らかにされている。現代に比べれば、こういうペテンに引っかかる人もずっと多かったのではなかろうか。
話のパターンは前回の三十八話と殆ど同じ。学習能力の無い男が何度も同じ過ちを繰り返し、かつ反省しない話である。騙す相手も金持ちで、お供に芸妓が出てくるところもソックリ。テーマも庶民への戒めという点では同じ。
 これは決して偶然ではない。中国の古典小説及び語り物は「才子佳人」「公案」「志怪」といったようにジャンル分けがされており、各ジャンルには物語を進めるうえでの「お決まり」が暗黙の了解として存在する。今古奇観しかり、長編古典小説しかり、そうしたお決まりに従って話が進行するのだ。
 これは詩作を「押韻」などのルールに従って作るのと同じようなもので、小説も創作するうえで暗黙のルールがある。ルールを守った方が読者は安心するし、創作もしやすい。また中国人には儒教的観点から「古いものほど良い」という考えを抱きやすいので、小説戯曲のルーツは唐代伝奇などから引っ張ってくることが多かったりする。
 大雑把な言い方で結論付けるなら、中国古典小説は創作の幅が非常に狭い。お話のテーマや外面が違うだけで、話の展開そのものは全く同じという作品が少なくない。作者達の多くは過去の物語のパターンを踏襲し、著しくオリジナリティに欠けている。西洋古典文学に対して中国古典小説が大きく見劣りするのは、この点だろう。気になる方は「才子佳人」のジャンルで十タイトルも読んでみればいい。話の展開が全部同じはずだ(笑)
 そんなわけだから、多彩な物語に慣れた我々現代の読者は、数十編も読むうちに展開が読めてしまう。
 もちろん、当時の人々も同じ思いを抱いていた。出版文化が発達した清代以降は「才子佳人」など完全にマンネリ化し、清末には没落したジャンルだった。
 一方で、作者達にも創作ルールを守らぬへそ曲がりがいたことを書いておかねばなるまい。他ならぬ「金瓶梅」「紅楼夢」「儒林外史」といった、現代では押しも押されぬ評価の作品群である。当時、これらの作品は既存のジャンルに縛られない画期的作品だった。そればかりか、右で挙げた「紅楼夢」「金瓶梅」「儒林外史」の三作は、それまでの小説に対してあからさまに喧嘩を売っているとしか思えない主張も見え隠れしている。そんなわけで、作品の評価が大きく割れたのも事実。「紅楼夢」は批判を浴びながらも大勢の読者がいたし、「金瓶梅」は現代中国に至るまで評価が定まらない有様だ。中国創作の常識が本格的に変わるのは、魯迅をはじめとする近代小説家達まで待たなければならなかった。
 話が大幅に横道へそれてしまったが、何が言いたいのかというと、この「今古奇観」という作品は当時の物語の黄金パターンが集約されているということだ。ストレートな物語を、とやかく難しいこと考えずに楽しんでいただければよいのだと思う。
 最後のレビューということで、長々余計なことを語らせていただきました。
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