2013_04
15
(Mon)22:48

莫言「紅い高梁」 分析レポート

大学時代に書いたレポート。
今にして思うと拙いな…

本作「紅い高梁」はフィクション的な面とそうでないリアルな面がせめぎ合い、均衡を作り出している作品だと感じた。本作は危ういバランスで成り立っており、一歩間違えばおとぎ話じみた嘘っぽさになりかねない物語を、リアルで鮮烈な描写を繰り返すことによって現実味のあるものに保っている。
本作にはあからさまに作り話じみたストーリーが目立つ。「わたし」の祖父が編み出したブローニング銃の早撃ちや、小便をかけたら高梁酒が絶妙な化学反応を起こしてうまくなったという話などは、どうみても物語としてのリアルさには欠けている。しかしそれと相反するような生々しい話もある。犬との戦いで睾丸をやられてしまった「わたし」の父の描写、日本人の命令で皮をはがされる羅漢大爺の描写などは実にグロテスクで、非常に嫌悪感を催す。リアルさを超えたリアルな描写とでもいうできもので、読んでいて非常に気分が悪くなる。上記のように、あたかもあからさまな嘘じみた部分と非常に現実味のある部分がうまく物語の中で同居しているのが「紅い高梁」という作品だと考えていいだろう。
これらの同居は何も物語の面だけではなく、登場人物や舞台設定にもあてはまる。例えば、作品の舞台となっている高密県東北郷は架空の村である。一応山東省であることは作者自身の出身地であることや他の作品の舞台にもよく用いられているという点で断言してもよいのだろうが、あくまでモチーフに留まっている。訳者のあとがきにもあるように、読者によっては山西省などの内陸の山野が情景として浮かぶという声もある。こうした錯覚は、さきほど上でのべた嘘と真実の同居がなせる業なのではないかと思われる。あまりにその場所で起きたにしては不思議な物語、そうしたものが展開されることによって、物語の起きた場所そのものが寓話的な存在に変化していく。無論、その一方で緻密な情景描写が目立つ場面も多く、その時高密県東北郷は読者の前に現実味を持った村としてうつるのだ。
登場人物において、嘘と真実の同居が際立つのは、やはり「わたし」の祖父であろう。物語の実質的な主人公であるこの人物は、片や超人的な活躍をする伝説的な人物でもあり、片や粗暴で荒々しく、野生的な人物でもある。「わたし」は祖父の人生を語るうえで、あたかも祖父の人生を眼前で見ていたかのような視点に立って語っているのが本作の大きな特徴だ。超人的な人物である祖父と等身大の人物である祖父を、「わたし」は分け隔てしない。することなく同じ人物として捉え読者に伝えようとしている。こうしたトリックにより、読者は明らかに異なった二つの登場人物を一人の登場人物として認識させられてしまう。この作品が仮に「わたし」から見た祖父の視点ではなく、祖父自身の視点による物語だったならば、読者は超人的な祖父と人間的な祖父が同一人物だとは思えなくなるのではないか。祖父という人物そのものは、実は読者にとってかなり捉えどころの無い人物である。嫁入りの女を襲うだけのチンピラにしか見えない時もあれば、強く勇敢な指導者のような一面をのぞかせたりもする。彼には様々な顔があるのは、作品を読んでいれば明らかだ。盗賊の首領であり、抗日のゲリラの司令であり、さらには怪しい秘密結社「鉄板会」の副リーダーでもある。時には新しい高梁酒を突飛な方法で開発した変人のように描写されることもある。無論、終始一貫しているような部分もあることにはあるのだが、それも全体を通してみるとはっきりしない。祖父という人物の姿は、「わたし」の語りによってその都度違う色に塗り変えられていく。塗り変えているのが「わたし」という人物で統一されているからこそ、読者はそれを信じざるを得ないのだ。こうした語り部の存在する作品においては、複数の語り部(つまりは複数の視点)が一人の登場人物について語るというパターンと、本作のように一人の語り部(一つの視点)が一人の登場人物について語るという2つのパターンを考えることが出来る。前者のパターンならば、当然語り部によって人を見る視点が大きく変化するので、彼らに語られる人物がまるで違う人間みたく読者に感じられるのはおかしいことではない。しかし後者のパターンとなると、少々違和感がつきまとう。この違和感は不気味ではないだろうか。一人の語り部が、まるで別々のように思える人間を一人の人間として語っているのだ。しかし、そのような違和感を出来るだけ表に出さないトリックを作者は別に用いている。というのは、「「わたし」が語る父や祖母、他の登場人物から見た祖父」という視点が存在することだ。「わたし」の父や祖母の内面を通して見えてくる祖父の姿が、時折「わたし」の口から語られる。こうして語り部である「わたし」にもある程度の客観性をもたせている。
作者がここまで意図しているかは不明だが、ある程度トリックをきかせなければ、読者は祖父を一人の同じ人物だと認識出来ないだろう。
登場人物に関してさらに話を掘り下げるとなると、やはり本作に出てくる人物の勢力分布に注目すべきだろう。東北郷の人々、鉄板会、日本軍、国民党、共産党、犬の群れなどである。この勢力図にも嘘と真実が隣り合わせで用意されている。国民党や共産党の抗日に対する姿勢などは現実的な描写が占められている。軍人同士の武装や武勲をめぐってのいがみ合いは実にリアルだ。「わたし」の祖父は村を守るために戦っており、国民党にも共産党にも加わろうとはしない。一時的に共闘することはあっても、祖父の視点には国家が云々という考えは存在していないのだ。この時期の中国の国民党・共産党の二大勢力(共産党の方はそこまで巨大な勢力ではないのだが)は抗日という点で表向き協力していたものの、同時に内戦も繰り返していたのが事実であり、このあたりの描写は史実に即したものだと考えられるだろう。祖父という中間地点から、読者は偏りの無い中国政府達の顔を見ることが出来る。正直なところ、共産党や国民党のどちらかに視点を置いてしまうと、もう片方の勢力に対して偏った見方が生まれるのは避けられないだろう。これは中国であるからこそいえる点だ。現代の共産党を主役にした大陸ドラマなどがそうであるように、共産党の側に立って物語を展開すると、国民党は完全な悪の勢力になりやすい。本作で祖父が中立ーーというより、あくまで村を守るという立場に立って戦い続けるのは、作者が共産党・国民党の実体をリアルに描こうとするための一つの手段だったと考えてもよいかもしれない。
その一方で、日本軍や犬の群れなどはまるで妖怪やおとぎ話に登場する存在みたく描かれている。日本軍がそうなるのはこの類の作品ならばよくあることだが、犬もまたそうした扱いを受けている。
 犬というのは、中国において人を罵るのによく用いられる言葉であり、必ずしも動物の犬そのものを表すだけではない。作中での犬と人間の戦い(戦争とも書かれている)には、その生々しい描写も含めて作者の隠された意図を感じる。実質、この犬達という単語を人間と置き換えて読んでも物語には破綻が生じない。それどころか、よりおどろおどろしさを醸し出すような印象を受ける。また犬の描写にも特徴がある。まず様々な色の犬がいること、数がかなり多く感じること(これは日本人的な感覚かもしれないが)、犬が軍隊のような描写をされていることなどである。では、本作に登場する犬は、一体どのような存在だったのだろうか。食べ物に飢えてやってきたと捉えるなら、東北郷の近隣の村の人間達をイメージしているのかもしれない。戦争によって困窮し、同じ中国人達を襲いにやってくる、そういう存在だ。日本では余り例がないものの、こうした人災や天災が起こった時に同族を攻撃するのは中国ではよくあることである。
ほかにも、中国の犬(狗)には、「へつらう」や「媚びる」という意味がある。日本の傀儡軍の手先や、あるいは作中でもいわれていたように長年人々に隷属していた層が村の混乱を好機とみて襲ってきたのかもしれない。犬達との戦いは、読者に様々な想像を膨らませる場面であると思う。
話はやや戻るが、共産党や国民党、犬や日本軍などと比較してみると、鉄板会という勢力は現実と空想の存在の中間といったところに位置しているように思う。莫言の作品にはこうした物語じみた秘密結社がよく登場する。我々日本人の視点ではこうした秘密結社の存在は思想も行動も嘘くさく物語じみているように感じるが、中国においては近代でも義和団のような例がある。そう考えると、これはリアルな存在として分類出来るのかもしれない。呪術的な儀式で鉄砲に打ち勝てるというのも、義和団に存在した要素の一つだ。また鉄板会の面々は、ゆくゆくは中国の北部全体を鉄板会の支配に置こうと考えるような面もあった。
さて、本作は「わたし」によって語られる物語であるが、この「わたし」自身についても終盤で少しだけ語られる。「わたし」は伝説的な人物達を先祖に持ちながらも、他の都市の空気にまみれてそうした人物の資質を失ってしまっている。終盤の場面では、高梁がそのモチーフとなっている。外からきた高梁が東北郷に入ってきたことによって、その殆どが雑種の高梁となってしまった。雑種の高梁というのは、いうまでもなく東北郷の高梁を踏みつぶした日本軍や、さらに掘り下げた言い方をするならその雑種の高梁を植えた人間、つまりは国の最終的な支配者である共産党政府のことだろう。「わたし」は彼らの支配にまみれて生きてきたため、東北郷の人間であるアイデンティティを失いかけている。だからこそ、墨水河に三日三晩つかって肉体を洗い清め、かつての祖父達と時を共にした赤い高梁を探そうとするのだ。こうした物語の背景には、やはり言うまでもなく共産党の過激な政策による(もっとさかのぼれば国共内戦から)中国の文化や思想など、あらゆるものの破壊があったのではないか。あとがきで述べられているように、八十年代あたりからいわゆる「ルーツ文学」の走りがあったとされる。莫言は急激な破壊にあってしまった中国という国で、自分達のルーツを描きたかったのではないか。それはおとぎ話のようでもあり、真実のようでもある。そうした曖昧さが、中国人の根底にある祖先への憧れ、ルーツに対する感情を巧みに表現しているのだと感じる。
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