今回のお話は第十六話「李汧公穷邸遇侠客」。醒世恒言の三十巻目であり、邦題は「李汧公が穷邸で侠客に出会う」。本作はいわゆる侠客ものであり、そういうジャンルの小説までカバーしているあたり、今古奇観の懐の深さや作者の見識をうかがわせる。

ものがたり
唐の天宝年間、玄宗皇帝の治世は荒れ始めて各地で反乱がおきている。とりわけ安禄山による被害は大きく、天下の民は苦しんでいた。長安に住む房徳という貧しい男は、いつまでも仕官にありつけず、家ではけちな妻のせいで着るものにも苦労していた。知り合いを尋ねて金を借りにまわっていたある日、雨除けのため寺に入ると、そこには頭の欠けた鳥の絵がある。房徳はなんとなしにその鳥の頭を書き足した。すると隠れていた賊が現れて彼を仲間に引き入れようとする。何でも鳥の頭を書いてくれる人をかしらに仰ごうと待っていたのだ。半ば脅される形で仲間になった房徳は、彼らとともに強盗をするが捕まってしまう。
その時の知事だった李勉は慈しみ深い人物で、賊の中でただ一人浮いている房徳を見て何かあると思い、彼を逃がしてやる。房徳は感謝してその後笵陽に向かい、安禄山に仕えて身を落ち着ける。一方の李勉は房徳を逃がした咎で免職になり、故郷へと戻った。清廉な役人だった彼は私腹を肥やさなかったので家が貧しく、二年もすると
暮らしが行き届かなくなった。ある日、彼の前を通る役人の一行、馬に乗った人間はなんと房徳ではないか。
房徳も李勉に気がつくと、屋敷へ招いて彼を手厚くもてなす。房徳は家へ帰り、妻に李勉へ贈り物をしたいと語ったが、了見の狭いこの女は李勉を殺すように夫へ迫る。李勉は房徳がかつて賊だったことを知っているから、もしそのことを餌に弾劾でもされたら今の地位を失うことになると。妻の強気な物言いにのまれてしまった房徳は李勉を殺す決意を固める。とはいっても、もちろん自分でやる勇気はない。折しも、彼の治める県には風変りな義士がいるとのことだった。房徳はわざわざその男を尋ね、あれこれと嘘をでっちあげて李勉の殺害を頼む。義憤に駆られた義士はすぐさま飛び出していく。李勉は賢い主従のおかげで房徳の企みをいち早く見抜き、遠くの宿まで逃げていたところだった。しかし晩になってくだんの義士が姿を現す。義士は李勉達の会話を盗み聞き、自分が騙されていたと知るやとって引き返し、房徳夫妻を殺害する。
事件から難を逃れるため再び長安へ戻った李勉は、やがてもとの地位を取り戻す。その後義士と再会し、手厚いもてなしを受ける。豪邸に住まい、美女を仕えさせる並外れた義士の姿に、李勉は感嘆するのだった。

実はこの話、入話が無い。珍しい。
侠客ものではあるが、義士が登場するのは物語の終盤になってから。義士の造型はどちらかというと水滸伝に出てくる豪傑に近く、房徳夫妻を惨殺する時の台詞なんか悪役そのもの。相手の腹を引き裂いてはらわたを引きずり出すヒーローが、この頃の主流だったようだ。ちなみに唐代伝奇などではよくあることだが、こうした義士は異人とのかかわりを持っていることが多い。本作の義士も異国人の下僕を連れていたりする。そうでなければ、神仙の弟子であるという設定がよく用いられる。清代あたりになってくるとようやく侠客達も現実味を帯びた存在になってきて、武芸門派の門弟だとか有名な山賊だったりという出自が多くなる。
また現在の武侠小説でも使われている手法が本作にも登場している。例えば義士が房徳夫妻に用いた死体を溶かす薬とか。武侠小説ではこの類のアイテムがよく登場するが、明の時代から既にその原型はあったわけだ。
さて、本作の悪役である房徳夫妻だが、諸悪の根源はどちらかというと妻の貝氏ではなかろうか。彼女の言い分は無茶苦茶もいいところで、完全に自分の都合しか考えていない。端的には、貧しい李勉なんかに金を出したくないから殺してしまえというわけ。了見が狭すぎる。そんな彼女に従ってしまう房徳も駄目すぎる。とはいえ房徳の方は悪人というよりも、他人に強く出られると逆らえないその性格が問題なのであって、根は善人に思えないこともないのだが。賊に誘われた時は、自分自身のことを清廉潔白な人間だと明言してる。
本作のテーマは「恩返し」だろう。房徳と李勉、李勉と義士、キャラクター達の恩に対する行動がそれぞれの命運を分けている。
舞台が唐代の末期ということもあって、安禄山や楊国忠のような実在の人物がちらほらと顔を出す。作者は楊国忠を悪党扱いしているが、安禄山の方はそうでもない。これが当時の認識なのだろう。現代だと安禄山は悪党としての印象が強いのではないか。また冒頭に出てくる賊の言い分も面白い。悪人が支配する世の中では、自分達が悪いことをするのも仕方ない、というわけ。この主張は中国人という民族らしさが滲み出ているように思う。
第十四話「宋金郎团圆破毡笠」。「警世通言」の二十二話目にあたる。
邦題は「宋金が破れ傘に団円する」


ものがたり
明の正徳年間、蘇州に住まう宋敦夫妻は役人を務めたこともある家柄で、先祖の土地を耕しのんびり暮らしていた。ただ一つの悩みは子供が出来ないこと。ある時、娘娘廟への参拝の帰り、病気の僧が寝ている宿を通りかかる。僧は三年余り金剛経を唱え続けて生活し、もうすぐ縁に導かれて円寂するところだという。宋敦は僧のために身をはたき棺桶を買ってやった。その功徳のためか、やがて妻は身ごもり子供が産まれる。息子は名を宋金といい、特に問題もなく育っていったが、彼が六歳の時に宋敦は病気で亡くなり、その後暮らし向きが悪くなって母親も死んでしまう。一人残された宋金は読み書きが出来るのを頼みに笵という新たに赴任してきた県令に雇われたが、周囲の奉公人ののねたみのために追い出されてしまう。困り果てていた矢先、父の友人である劉有才夫婦に拾われ、彼らの船商売を手伝うことに。劉夫妻には娘が一人おり、名を宜春といった。彼女は宋金が初めて船に来た時、小雨をしのげるよう縫った破れ傘を被せてやるのだった。宋金は夫婦のもとで懸命に働き、瞬く間に評判を知られるようになった。劉夫妻は彼が貧しくも旧家の子息で、しかも亡き友人の忘れ形見ときているから、宜春を嫁がせて夫婦にした。やがて子供が産まれたが、すぐに病気で亡くなってしまう。宋金はそれがきっかけで心を病み、半ば廃人となってしまった。一年余りしても一向によくならないので、劉夫妻は宋金を厄介者と思うようになる。ある時、わざと船を陸に乗り上げ、宋金を下ろして山から柴を持ってくるように命じ、その間に自分達は船を出してしまう。宜春はそれを目にして激昂し、劉夫妻を罵った。だが船を戻し、あちこちを詮索した時にはもう宋金の姿は無かった。宜春はその後喪に服し、生臭物も口にしなければ再婚もしようとしない。一方の宋金は劉夫妻に捨てられたのを嘆き一人困り果てていたが、そこへ老僧がやってきて、金剛般若経を渡し宋金を諭す。宋金は般若経を唱えるうちに心が開け、やがて山の中で山賊達の遺産を見つける。そこには金の山があった。彼はそれを持ち帰り、金陵で銭大尽と呼ばれる大金持ちに。捨てられてより三年、宋金は劉有才夫婦を訪ねる。宜春は、銭大尽が破れ傘をいじっているのを見て彼が宋金だと気がつき、再会を喜ぶ。夫妻は宋金に謝罪し、一家は南京に移り住むことに。宋金は老僧に救われて以来毎日金剛般若経を唱えていたが、妻もそれに倣い、その信仰によって家は代々栄えたのだった。


話自体はシンプルなのですが、細かな場面の描写が込み入っていてちょっと複雑な粗筋になってしまいました。ご容赦を。
さて、本作で注目したいのはやはり中国人の宗教観。
中国においてどんな宗教が最も受け入れられるのかといえば、やはり現世利益のある宗教に尽きる。その顕著な例が道教。不老不死やら錬金術といった類の代物は、全て現世における利益の追求しようとした結果生まれてきたのだ。
本作では金剛般若経が登場するわけだが、これは紛れもなく仏典である。仏教はそもそも現世利益を与える宗教ではないが、本編では般若経を唱えたことで病気が治るやら金を手に入れるやらいいことづくめ。中国の当時の民間人の宗教観をよく表しているエピソードだといえるのではないか。とどのつまり、現世で何らかの利益をもたらしてくれるのがありがたい宗教というわけだ。中国でキリスト教が受け入れられにくかったのも、つまりは来世での救済といった点に同調出来なかったためであると思われる。
本作の舞台は明代であり、仏教の概念自体も大分変化して中国風になっていると考えることも出来る。有名な古典小説「金瓶梅」の呉月娘という女性は信仰心の厚い人間だったが、彼女を訪ねてくる尼や僧の教えというのは大概が金目当てのデタラメだったり、中国における宗教の実態を描き出している。当時はろくでもない仏教徒もそれなりに存在したのだろう。
本作では、別に大きな視点から宗教を語っているわけではない。あくまで人々に「信仰心を持つこと」の大事さを訴えるのみに留めている。宋敦が持っていた衣服まで売って僧のために棺桶を買ってやる場面、宋金が仏を毎日拝む場面などが、それを端的に表している。信仰心を持てば利益が帰ってくる、というわけだ。

タイトルになっている破れ傘だが、これは夫婦の再開のきっかけとなる恋のアイテム代わりとして用いられている。作品によってはハンカチだったりかんざしだったりするわけだが、これもまた当時の説話小説のセオリーの一つである。
本作でも印象的なキャラは宋金の妻、宜春だろう。夫への情愛は人一倍強く、彼のために一生喪に服す決意を固めるほど。彼女は船商人の娘で、教養には乏しく身分も高いわけではない。また女性ということは、少なくとも男より一段低い身分として扱われる。そんな彼女が人としての貞節を大事にしているところに、読者は心を打たれるのだ。第五話の杜十娘と同様のパターンだろう。




第九話「转运汉巧遇洞庭红」もとは「拍案惊奇」の一話目にあたる。
邦題は「転運漢巧く洞庭紅に遇う」。転運漢とは人の名前ではなく徒名。運のまわる男といったところ。ようはラッキースターである。

ものがたり
明の成化年間、蘇州に住まう文若虚は聡明でいったん手をつけると大抵のことはこなせる男。しかしそれをいいことに稼業を怠け、すっかり財産を食いつぶしてしまう。何度か商売をやってみるが、いつも元手をすってしまう。ある時に、北京では扇子が売れると聞いて沢山仕入れてみたものの、その年は雨が降って扇子は全て駄目になってしまう、という具合だった。それから数年後、海外へ商売に行く一団に文若虚はついていくことにする。義侠心のある張という男の助けで、どうにか船の組員の一人になれたが、生憎海外へ商売へ行くにしても売る品物が無い。張から貰った銀一両で、文若虚は太湖の蜜柑「洞庭紅」を百斤ばかり買った。本人はこれが商品になるとは露ほども思わず、ただ船旅で喉が渇くだろうからと船員の皆のために買っただけだった。
出港した船はまず吉零国という場所についた。そこでは中国の品が三倍の値で売れる。文若虚は何気なく船を下りて蜜柑を箱ごと取り出し食べていたが、そこへ現地の人々がもの珍しそうにやってきて、蜜柑が食べ物だと知ると売ってくれるようせがんだ。それを皮切りに、蜜柑は次々にさばけていく。文若虚は値をふっかけていたので、稼ぎは相当なものになった。
再び出港した船だが、途中で風に遭い無人島に流れ着いた。文若虚は一人上陸して奥地に進み、巨大な亀の甲羅を見つける。他の商人達が品物を物々交換したのに対し、文若虚が持っているのはお金だけで、中国に戻った時向こうで売れる品物が無いので、ひとまずその珍しい甲羅を持って帰ることにした。
数日後、一行は福建に到着した。目の肥えたペルシャ人商人の店で、皆は自分達が持ってきた品で取引を始めるが、文若虚は品物が無いので落胆していた。しかし翌朝、ペルシャ商人は文若虚が持ってきた甲羅を偶然見つけ、これを高く買い取りたいと言い出した。文若虚は思い切りふっかけて五万両で売ったが、主人は即座に承知した。何とその殻は竜の殻であり、その殻には夜光の珠が数えきれないほどくっついているのだった。結局ペルシャ商人は相当安く買い取ってしまったわけだが、文若虚は足るを知り、家業を起こして子孫も繁栄したのだった。



いわゆる「運」の話である。これもまた訓示的な内容。いわゆる庶民の人々の中には努力をすることを無駄に思う人間が大勢いる。それもそのはずで、この時代農民は一生農民、商人は一生商人、地位を得るための手段となればオンリー科挙なのだ。努力しても人生が好転するとは限らない。そんな庶民を感化させるため、というのは言い過ぎかもしれないが、人生の中で転がり込んでくる運について本作では述べている。
主人公の文若虚は落ち目の人間だが、決して中途半端な暮らしになびこうとしない人間である。失敗しても、必ず次の機会を見つけては行動をしっかり起こす。そうした姿勢を持っているから、張のような人間が助けてくれたり、運がまわって大儲けも出来るのだ、というわけ。
ところでこの話の見どころは、何といっても海外の描写。明の成化年間はちょうど色々な国から入貢があった時期でもあり、海外との商売は盛んだったのだろう。海外商売専門の宿や通訳、仲介人がいると本編でも触れられている。また中国の品を海外に持っていくと三倍の値で売れ、さらにその海外の品物を中国に持って帰って売ればやはり三倍で売れる。つまり物々交換して中国に持って帰れば、九倍の値段で売れることになるのだと書かれているので、これは危険を冒しても確かに行く価値がある。
ちなみに、文若虚らがたどりついた吉零国だが、ネットでこんな文章を見つけた。
「吉零国,出自 《初刻拍案惊奇》,疑为斯里兰卡和缅甸之间,也就是今天的孟加拉湾」
スリランカとミャンマーの間、つまり現在のバングラデシュらしい。出典が不明なので、どこまで信用できるのかはわからないのですが…。
また終盤に出てきた竜の殻って何のことぞやと思われるだろうが、これまた詳しいことは不明。竜には九種類あって、本編に登場したのは鼉竜(だりゅう)という生き物の殻らしい。古代中国の空想上の生物で、ワニに似ているのだとか。そんなものが本当にいるかどうかはさておき、当時の人々が海外に抱いていた感覚がわかるのはなかなか面白い。
ちなみにタイトルにも出てくる洞庭紅は実在する。
第七話「卖油郎独占花魁」

邦題は「油売りが花魁を独り占めすること」。これまた中国の説話では有名な一遍。江戸時代に中国の写本が国へ伝わると、一部登場人物が改編されるなどして読本にもなった。《醒世恒言》の三話にあたる。


ものがたり
宋の時代、北方金軍の南下によって開封に住んでいた莘一家は離散してしまう。莘夫婦の一人娘、瑤琴はあてもなくさまよううち、卜という男の手で臨安の廓に売られてしまう。騙されたと知った時には後の祭り、彼女は仕方なくそこで働くことになり、王美娘の名を貰う。十四にもなると臨安では有名な佳人になっていた。十五歳の時、初めて水揚げを経験し、その後一悶着あったもののそれからはますます客を取るようになり、彼女の名前は一層広まった。
一方、臨安府の油売り朱老人のもとでは三年前から秦重という若者が働いていた。彼もまた開封から戦を避けて避難してきた人間だった。朱老人のもとで働く女中といさかいになって家を追い出されてから、彼は一人で油を売り歩くようになる。真面目に働いていたある日、廓の前を通りかかって王美娘の姿を目にする。廓のおかみ王ばあさんはかねてから秦の噂を聞いていたので、お得意扱いするように。秦重は王美娘に会いたい一心で、ある日ついにお金を少しずつためて彼女を一晩抱く決心をする。一年半年かけてお金をため、身なりを整えた彼はいよいよ王美娘を一晩買おうとするが、とうの彼女は有名な芸妓なだけあってなかなか会えない。一か月余り経ってようやくその機会が来たが、王美娘は先客との宴会で酔っ払っていてとても秦重の相手をするどころではなかった。とりあえず奥部屋で二人っきりになった秦重は、酔った王美娘を一晩中介抱してやる。翌日、正気になった王美娘は彼の礼儀を心得た振る舞いに心底感服するのだった。
その後、秦重は真面目に働いていよいよ商売も大きくなった。そこで手伝いを雇おうと決め、折よく同じ開封出身の老夫婦がいたのでこれを雇うことにする。一方、王美娘はある時相手をつとめた呉八公子に辱められてしまい、靴を脱がされて川辺に放り出されてしまう。だが偶然駆けつけた秦重に救われ、彼女は是非あなたのところに嫁ぎたいと告白する。最初は断った秦重だが、王美娘の熱意にいよいよ承知した。彼女はかねてから自分で自分を受けだすために小銭をため込んでいたため、おかみの王ばあさんの友人、劉ばあさんに説得を手伝って貰い、無事廓を抜け出すことに成功する。
吉日を選んで結婚した二人だが、そこで驚くべき事実が判明する。秦重のもとで雇っていた老夫婦が、何と王美娘の良心だったのだ。天の引き合わせに感謝した秦重は、寺でお参りをする決意をする。色々な寺を渡り歩くうち、天竺寺で働いていた老人が自分の父だと知り、二人は再会を喜んだ。その後秦重と王美娘は子供を二人産み、彼らは学問で名を成したのだった。


しがない油売りが都一番の美人を手に入れ、生き別れた家族とも再会、子孫は栄えるといういいことずくめな話。
とはいえ、中国の説話の王道パターンでもある。物語の構成は見事で、王美娘と秦重、二人の話を別々に描きながらうまく絡ませている。貧乏な秦重がいかにして彼女を手に入れるのかと思えば、ただひたすら真面目にコツコツ働いて貯蓄するという、ある意味読み手の心理を裏切ったような展開がグッド。
日本人の観点からすると、家族に再開するくだりは少々ご都合主義に見えてしまうかもしれないが、中国小説を読みなれていると案外そうでもない。
中国では知り合った相手が「同郷の人」であることの意味が大きい。
瑤琴が悪党の卜をあてにする羽目になったのも彼が同郷の人だからであり、秦重が老夫婦を雇ったのも同郷の縁からである。広大な中国において、故郷が同じであるということは即ち助け合う仲間同士なのだ。特に北宋時代は北方から遼国や金国が攻めてきた事情もあり、戦火の中での助け合いとなれば、なおさら同郷の結びつきは重要視されたことだろう。そのため、物語の中で起こる離散と再会は偶然的な要素もあるにせよ、実は意外と読者を納得させる展開になっている。
またこれは余談だが、初めて会った中国人同士が名乗りをあげる時、大抵は名前と一緒に自分の郷里がどこであるかを明かす。これもまた上のような事情が絡んでいるのだろう。

ものがたり紹介では省いてしまったが、王美娘が劉ばあさんから娼妓の落籍について指南される場面があり、当時の中国の世相がわかって非常に面白い。廓に関する描写はこと細かく、当時の廓通いのルールなども学ぶことが出来る。
説話には訓示的な内容が多いが、本作の隠れメッセージは一つには「誠意を大事に(秦重のように真面目に働くことや、王美娘のように金ではなく人柄で相手を選ぶこと)」、二つには「同郷の縁を大事に」といったところだろうか。



第四話「杜十娘怒沉百宝箱」
「警世通言」十編の中からの一遍。中国でもかなり有名な作品で、映画にもなったりしています。邦題は「杜十娘が怒りに百宝の箱を投げ捨てる(厳密には沈める)こと」

ものがたり
時は明の万歴年間、北京の色街へ出歩いた李公子が出会った廓の名妓杜十娘。遊び好きで美男&金持ちの李公子はすっかり彼女に入れ込んでしまい、李十娘もまた彼のことを心から愛するように。しかし名妓だけあって、彼女のもとへ通ううちに李公子は素寒貧になってしまう。意地の悪い廓のかみさんはそんな李公子の窮状を知ったうえで、千両出せれば十娘を身請けさせてやってもいいと告げる。李十娘は幸いへそくりがあり、七百両までは工面することが出来た。李公子は同じ学生の友人、柳遇春に頼んで残りの金を集め、とうとう十娘を廓から連れ出す。ひとまず、厳格な父に妻を得たことを報告するため一路故郷を目指した二人だったが、途中船で小さな宴をした晩、孫富というよこしまな男が十娘の美貌と歌声に目をつける。孫富は言葉巧みに十娘と別れるよう李公子に語り、自分に十娘を引き渡す代わりに千両を差し上げるので、それで故郷の厳格な父に申し開きをすればよいと述べた。とうとう李公子もそれを承知し、十娘にそれを話してしまう。十娘は表向き孫富の考えを褒め称えた。が、翌日孫富と船上で取引する寸前、十娘は廓の同輩から貰っていた千金の財産(夫には内緒で隠し持っていた。郷里の舅にこれを見せて、結婚を納得してもらうため)を投げ捨て、李公子の不甲斐なさを罵って自らは川に身を投じてしまう。李公子と孫富はどちらもみじめな最期を遂げる。やがて都にいた柳遇春のもとへ、その十娘の捨てた宝が流れ着く。その晩、彼女は霊となって柳遇春の前に現れ、かつて身請けを手伝ってくれたことの礼を述べ、消えたのだった。


単純な筋書きながら、細かいところでこみいった事情があるので、何だか変なあらすじに。ごめんなさい。
まず時代考証としては、私の大好きな万歴年間ということで少々口酸っぱく言いたいところがあったり。本作では万歴期に起きた大三征(ボバイの乱、楊応龍の乱、朝鮮侵略)を平定したということで、史実では暗愚な皇帝であるはずの神宗が有能な皇帝であるかのように書かれている。うーん、なんだそりゃ。実際には、大三征のせいで軍費がかさみ、朝廷は多大な税金を農村へ課す羽目になったわけですが。まあ、都市部は依然として繁栄をほこっていたわけで、あながち間違いではないのかも?

遊女を妻にするというのは世間体にけっこう傷がつくことらしく、厳格な家庭では歓迎されなかった模様。しかし杜十娘は美貌だけでなく中身の方も立派な烈婦であり、そこが物語の肝でもある。
李公子ははっきりいってヘタレ。いわゆる才子佳人小説の男性キャラクターは貧弱な造型である場合が多いが、この作品の李公子はまさにそのヘタレのもっともたるもの。
いわゆる才子佳人小説の逆を目指しているのだろう。モテない士大夫層が己の願望をむき出しにして書いた才子佳人小説において、主人公のお相手の佳人は大抵宰相などの娘で、容貌は並外れ、文学にも通じているという、今どきのラノベでも見かけないようなほど高スペックなキャラであることがしばしば。そんな佳人に対して到底釣り合っていないような主人公が、科挙に合格したり佳人のピンチを救ったりすることでめでたく結ばれる、というのが話のセオリー。
それに比べると本作は、そういった才子佳人小説に出てくるような主人公へに皮肉ともとれるような内容ではなかろうか。そのために、本作はハッピーエンドとはなりえないわけで。
苦界の人間である十娘の方が、むしろよっぽど人間味に溢れ、義気にも溢れている。これも官界の人間に対するアンチテーゼでしょう。庶民にはずっと感情移入しやすいかも。
ちなみに、柳遇春の前に霊として現れた杜十娘は万福の挨拶をする。あの片手は拳を作り、もう片方は平手を作り、両方を胸の前で重ね合わせるやつです。古典小説だと、女性はこの万福で挨拶することが多いのですが、私的にはこの場面がかなり印象深く残っています。あんまり見かけないせいだろうか。紅楼夢なんかにも出てきたりするけど。結構清朝あたりの挨拶という印象が強い。




まだまだいきます。「今古奇観」のおススメ紹介。
正直、全四十編のいずれも見るべきところのある面白い作品なので、全部のレビューを書くのもまんざらではないのですが……。

第三話「滕大尹鬼断家私」

邦題は「滕大尹が幽霊によって私財をとりさばくこと」。「喩世明言」からの一遍です。

ものがたり
明の永楽年間、順天府に倪という府の長官(別名を太守とも)がいた。倪太守はまじめに蓄財を重ね、善継という跡取りもいる。夫人はとうに無くなり、倪太守自身歳はもうすぐ八十に届く。十月のある日、太守は村の川べりで見かけた十七歳の娘に年甲斐もなく惚れ込んでしまい、ついにその娘、梅氏を妻に迎える。やがて十月の後、梅氏はみごもった。息子の善継夫婦は、跡継ぎが増えてしまえば財産を分けねばならぬので、これが面白くない。倪太守は梅氏の子供を善述と名づけ、五歳のころには勉学を始めさせた。ある日倪太守はふとつまづいたのをきっかけにして病になり、そのまま亡くなってしまう。彼は亡くなる直前、梅氏に対して一枚の掛け軸を渡し、困ったときに賢明なお方へこれを見せて判断をあおぐよう言い残した。太守は欲深な善継の性根を知っていたため、争いにならぬよう土地の殆どを彼に渡し、梅氏にはわずかな土地しか残さなかった。しかし、太守が亡くなった後も善継夫婦の嫌がらせは続く。ある日、新たに赴任した滕県令の名声を聞きつけた善述は、母の梅氏に告訴するよう申し出る。梅氏は太守から生前に渡された掛け軸を持って県令に訴えた。善継はこれはまずいと思い、親戚に金を送って自分の味方につける。
滕県令は掛け軸の謎が解けなかったが、ふとしたきっかけで掛け軸に茶をこぼすと、絵に文字が浮かび上がってきた。そこには隠された遺産の相続について書かれていた。やがて裁判の日、滕県令は一芝居をうつ。倪家に来るなり、大広間でいきなり何やら話し始める。どうやら太守の幽霊と話しているらしい。そして東側の小さな家に行くと、生前に倪太守が善述のために残した大量の遺産があった。これにて善述は暮らし向きも良くなり、勉学を積んで後に繁栄する。逆に善継の方は落ちぶれてしまうのだった。


舞台は明の永楽年間。今回も物語と史実は絡んできませんが、前回紹介した話に比べると、歴史考証の面で突っかかるところは少ない感じ。
まず物語として面白いのが、八十間近のじいさんが十七の娘を娶るというくだり。
息子の善継は、若い女が老人に嫁ぐというのは世間様に対する家名の汚れだし、若い女は老人なんかとの生活に我慢できなくなって脇道に走る(浮気する)にきまってる、と考えるが、まあ確かにごもっともな意見。しかし予想に反して梅氏は真面目に暮らし、子供まで作ってしまう。じいさんの魅力と精力が凄いのか、梅氏が超貞淑なのか…。
そして本作で一番うまい汁を吸ったのが滕県令でしょう。実は太守が残した掛け軸の遺言では、善述に財産を渡す手助けをしてくれた者には銀三百両を謝礼にするよう書いてあった。しかし滕県令は実際の裁判で一芝居うち、金千両という大金を倪太守からのお礼だと称し、まんまと手に入れてしまう。その事実は、結局梅氏や善述も知らずじまいだった。このあたり、なかなか県令を単なる善人と書いていない点がリアルで面白い。




ここからは「今古奇観」で私が個人的に好きな作品を紹介。
あくまで私見ですので、鵜呑みにしないでくださいね。
選ぶ観点としては、話の奇抜さ、テーマ性の強さ、歴史面の描き方などなど。

第二話「両県令競義婚孤女」

もとは醒世恒言の一遍。邦題は「二人の県令が義を競って孤女を嫁がしむること」

ものがたり
本編は五台十国の時代、地方政権の南唐が舞台。徳化県に石という清廉潔白な県令がいたが、官米を蓄えた倉庫で火事が起きたことをきっかけに多大な賠償を唐王から要求され、それがもとで病気になり死ぬ。彼には一人娘がおり、幼名を月香といった。彼女は家ほろんだ後女中と共に公売にかけられてしまうが、そこへかつて石県令に冤罪から助けて貰った賈という商人が通りかかり、二人を買い取る。月香と女中はしばらく安寧な日々を送るが、いじわるな賈の妻によって、賈がよそへ商売へ行っているうちに再び売られてしまう。月香は鍾という県令のもとで女中として仕えることになったが、ふとしたきっかけで鍾県令に素性を知られ、近々婚礼を結ぶ予定だった高県令と数度のやり取りをして、高家の長男に鍾家の長女を、高家の次男に月香を嫁がせるということで話をつける。両県令はその義に厚い行いのおかげで、子孫も繁栄を極めた。

とまあこんな感じ。
冒頭には入話があり、本編とは真逆の内容。
舞台は五台十国時代の南唐となっており、正直な話中国史に多少通じていないとイメージがわかないかもしれません。唐の名を冠しているだけあって、この時期乱立していた地方政権の中では強大な国でした。もっとも、今回は特に歴史と物語が絡んでは来ないので無視してもオッケー。

中国通に興味深いのは、やはり序盤の公売の場面でしょう。県令の娘月香とその女中はそれぞれ、五十両、三十両で買い取られました。その当時の相場が結構気になるところ。今回は良家のお嬢様とその女中が売られているということもあり、値段が跳ね上がっているわけです。
ちなみに支払いは紋銀。ここらへんなんか史実的に怪しい気がしなくもない。乱世の時代だから、銀のような貨幣の方が使い勝手はいいとは思うのですが、本当に紋銀なんかあったんかな。
当時の読本に対する一つの批判として、歴史公証がいい加減な点がある。おおまかにいってしまえば書き手の教養不足が目立つ。これは短編のみならず長編でも言えることで、例えば金瓶梅は宋代の物語でありながら、登場人物たちの暮らしの描写や官制は明代のものだったり。小説が民間に流布した割に長いこと知識人層から評価を得られなかったのはこうした点が大きいのでは。

賈家に売られた月香と女中が賈家の女房にいびられるさまはまさに昼ドラ。このあたりは読者の共感を呼ぶ大事なとこなので割と引っ張る。賈家の女房はてっきり月香を養女にしたものとばかり思っていたのだが、夫が彼女をお客様扱い(あくまで恩人の娘)し続けるので、我慢がならなかったというわけ。
物語の終盤に出てくる二人の県令は、身よりのない月香のために縁談を結んでやったわけだが、そのおかげで後の代まで繁栄しましたYO!というのは、この時代のパターンとはいえ安易極まりない。なんというか、彼ら二人の行いと後生の繁栄にまるで因果関係が感じられず、とってつけたような感じ。もう少し技量のある作者だと、ここらへんがある程度ご都合主義から脱却している。

とはいえ、読後感のよい作品です。一番の見どころはやっぱり賈家の女房に月香と女中がいびられる場面でしょう。昼ドラ好きにはたまりませんわな。




最近スランプです。リハビリもかねて、これまでに書きためておいたレビューを放出します。

今回紹介する古典「今古奇観」は全四十集の短編小説集。
本作は明末の「三言二拍」という五種類の読本にある二百編の小説のうち、特に優れたものを抱甕老人が四十集にしてまとめたもの。ちなみに三言とは馮夢竜の「喻世明言」「警世通言」「醒世恒言」を指し、二拍は凌濛初の「初刻拍案惊奇」「二刻拍案惊奇」のことを言う。今古奇観の編者である抱甕老人については謎が多い。全四十集のうち、多くが三言で占められているので、一説には馮夢竜本人か、彼と親しい人物だったとも。
「今古奇観」や「三言二拍」のお話は江戸時代に日本へ輸入され、日本人向けにアレンジされたものが読本として出回っている。あの読本のルーツが実は中国にあったり…と、色んな意味で楽しめる。

「今古奇観」におさめられている小説はいずれも当時の黄金パターンにのっとって作られた作品ばかりであり、中国古典をかじったことのある人なら難なく読み進めることが出来る。また元ネタが唐代の伝奇などから引っ張られている作品もあり、作者のアレンジを楽しむのもまた一興。一つ一つの話が短いぶん、いきなり三国志や水滸伝のような長編の原典を読むのはムリ! という方々におすすめ。

また、上で当時の黄金パターンと書きましたが、それについてもう少し詳しく説明しておきましょう。
当時の小説(説話小説とも呼ばれる)は、そもそも街角の講談が発展していったものなので、文体や語り口が講談っぽいのが特徴。作者が途中で「皆様お聞きください」「さて皆様どうなったと思われます?」云々と本編に合の手を入れたりする。
また近世以前の中国において小説というジャンルはそもそも歴史書の扱いなので、書いてあることはたとえ荒唐無稽な話でも基本的には事実ということになっている。これはあらゆる中国古典小説を読むうえで大事な認識なので、知っておくが吉。
お話のジャンルは煙粉(恋愛物)、公案(裁判物)、志怪(ホラーもの)、伝奇(人物伝)、鉄騎児(軍記物)など幅広い。

小説の話の構成は、基本的に次のパターンを踏襲している。
定場詩・入話→正話→収場詩

1、定場詩・入話
…本編に入る前に、本編の趣旨などをわかりやすく語ったもの。聞き手が話に入りやすいようにするために用いられる。話によっては定場詩しか無い、あるいはどちらも無いといった場合もある。

2、正話
…本編のこと。

3、収場詩
…物語を締める、まとめの詩詞。古典小説では、詩句で物語を結ぶのが基本となっている。これまた物語の趣旨、作者のテーマを読者にわかりやすく伝えるためのもの。

本レビューでは、「今古奇観」の中から面白そうなものをピックアップしてレビューしていきます。皆様の読書に役立てていただければ幸いです。
参考文献は中国古典文学大系「今古奇観 上下」巻です。